叔父の訃報は、絶縁した妹のショートメッセージを通して届いた。皮肉なものだと思う。関わりを断った者からの知らせで、これまた関わりの薄い者の死を知る。血族というのは、切っても切れないようでいて、実際には随分と細い糸で繋がっているに過ぎないのかもしれない。
ここ十年以上何もなかった関係だ。これからも、おそらく何もない。冠婚葬祭の場でしか顔を合わせない親戚というのは、今の時代珍しくもないだろう。核家族化が進み、地方から都市へ人が流れ、親族の集まりそのものが希薄になった社会では、「親戚付き合い」という言葉自体が、どこか懐かしい響きを持つようになった。自分もまた、その流れの中にいる一人に過ぎない。
ただ、感情は理屈通りには整理できない。実父の葬儀で世話になった恩は、今でも胸の中にある。叔母の葬儀の折には、付き合いも世話にもなった事もありできる限り足を運んだ。今回の叔父の件は、それとは違う。招かれれば弔電くらい対処するだろう。招かれなければ、何もしない。それだけのことだ。義理と感情を、そうやって切り分けるしかない。
母のことを思うと、また別の重さがある。弟を見送った母が、そう遠くない未来に後を追うのではないか——そんな予感がふと頭をよぎる。親への思いは地獄まで持っていく。それに比べれば、幼少期に世話になったという叔父への義理など軽いものだ。
従兄弟たちに子はいない。この代で母方の血の繋がりは自然と閉じていく。誰かが強く断ち切らずとも、時間がその役目を果たしてくれる。だとすれば、自分がここで無理に関わりを持つ必要も、逆に完全に断つ必要もない。ただ、静かにしていれば良い。
家族というものが「血縁だから当然」ではなく「選び直すもの」になりつつある時代に、自分のこの感覚は、それほど特別でも冷たくもないのだと思う。守るべきは今の家庭であり、それ以外何モノでもない。無駄なストレスは削ぎ落とす。それは薄情さではなく、限られた心の容量を、大切な人に使うための選択なのだ。

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