「すべてを手に入れる」にはどんな意味があるでしょうか ? 実現可能ですか ?
以前にこう書いた。それは不可能だ、と。欲の極みであり、その人による、と。間違ってはいないと思う。でも今年、改めてこの問いの前に立ってみると、もっと根本的なところに引っかかりを感じる。
「全て」を手に入れたかどうか判断するためには、まず「自分にとっての全て」が何かを知らなければならない。ところが、それを正確に知っている人間が果たしてどれだけいるだろうか。おそらく、ほとんどいない。
人は何かを手に入れるたびに、次の何かを欲しくなる。満たされたと思った瞬間に、新しい空白が生まれる。これは人間の弱さではなく、むしろ構造的な問題だ。「全て」という言葉が指す対象は、追いかけるほどに遠ざかっていく。ゴールのないレースに、毎回真剣に参加してしまっている。
そしてもう一つ気になることがある。このキャプション自体の意図だ。答えを求めているのか。それとも、答えが出ないことを最初から知っていて、それでも問わせているのか。もしかすると、狙いはそこにあるのかもしれない。「全てを手に入れる」という問いに真剣に向き合わせることで、自分が本当に何を求めているのかを少しだけ炙り出す——そういう仕掛けなのではないか。
毎年同じキャプション。毎年何か違う自分がそれを受け取っているということでもある。答えが変わらないのではなく、問いの深さが変わっているのだ。そういう意味では、「全てを手に入れる」という問いは、答えを出すためにあるのではないのかもしれない。自分が今どこに立っているかを確かめるための、年に一度の鏡なのかもしれない。


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