「友」呼べる人の絶対性

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友人の人間性のどのような点を最も大事にしますか ?

今年はこのキャプションにムカついた。

これまでは律儀に答えてきた。礼節をわきまえているかどうか。合うか合わないかだ、と。それなりに誠実な回答だったと思う。だが振り返れば、その都度どこか腑に落ちない感覚があった。今年の苛立ちは、その違和感がついに言語化された瞬間だったのかもしれない。

僕が友と呼べる人間は、今や片手で足りる。その数少ない人物たちは、僕の人生で気づいたらいる。形だけではない。何年も会ってなくとも、連絡すらしなくとも、友は友だ。同級生や同僚、先輩後輩、先生や知り合いなどとは全く違う。

このキャプション自体、友人を品定めする視点を内包している。まるで条件を設けて、合否を判定しているかのように。しかし僕にとって友とは、すでにそういう審査を超えた存在だ。礼節があるとか、波長が合うとか、そんな個別の要素に分解できるような関係ではない。その人物を、全部ひっくるめて、丸ごと受け入れている。

人間性の「どの点」などと聞かれても、答えようがない。点などないのだから。

条件付きの友情というものが、よくわからない。思い返すと、礼節がなくなったら友人でなくなるのか。波長がずれたら終わりなのか。そんな友情は、友情と呼んでいいのだろうか。それはむしろ、条件が満たされている間だけ有効な契約に近い。

友は契約相手ではない。

友情を分析可能なものとして扱っていた。まるで友人を選ぶための基準表でも作るように。しかし友情とはそういう性質のものではない、と思っている。少なくとも、僕にとっては。

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