自分にした約束で、ちゃんと守り続けられているものは何?
単なる自責や後悔の吐露ではない。後悔ではなく、「省みたときに、そう見えてしまう」という事実についてである。
その時々において考え得る最善の選択をしてきた。それは決して怠慢でも、無責任でもない。にもかかわらず、後から振り返ればそう思ってしまう。この構造こそが、僕の抱える負債の本質である。
つまりここには、「あの時ああすればよかった」という単純な悔恨はない。あるのは、「あの時は正しかったはずのことが、結果として親不孝だった」という、選択と結果のあいだのどうしようもない乖離への自覚である。この自覚は、行動を悔いる後悔よりも始末が悪い。なぜなら、やり直しがきかないからだ。もう一度同じ状況に置かれても、おそらく同じ選択をするだろう。それでもなお、結果としての親不孝は消えない。ここに、この人物の倫理観の核心がある。
そして、この負債を自分の判断で帳消しにすることを、はなから拒んでいる。「これを措いて、極楽浄土に行ってよいものか」という言葉は、自分を赦す権限が自分にはない、という認識を示している。裁くのは自分ではない。閻魔様である。この設定が持つ意味は大きい。もし裁定者が自分自身であれば、いつか都合よく「もう十分償った」と自己申告して終わりにすることもできてしまう。しかし裁定者を外部に、しかも死後の審判者に置くことで、この約束は自分の心情や気分に左右されない、恒久的な負債として固定される。反故にしようがないのだ。
「自分に課した約束」すなわち、「反故にできる余地がある時点で、それは約束と呼ぶに値しない」という考えがある。都合が悪くなれば撤回できる誓いは、単なる決意表明に過ぎない。真に自分に課す約束とは、撤回する権限すら自分から手放したもの、外部の何か——ここでは死後の審判——に委ねてしまった約束だけを指すのだ。
一般的に「自分に約束する」という行為は、自分自身との契約であるがゆえに、実は最も破りやすい契約でもある。相手が自分である以上、いくらでも言い訳がきくからだ。約束の履行を、自分の意志の外——閻魔という審判機構——に預けることで、初めてそれを「約束」と呼べるのだ。
最後に一言言うなら、これはあくまで個人の信念体系であり、宗教的な教義の解説でも、万人に当てはまる道徳論でもない、という点だ。親を思う気持ちの表れ方、償いの形、死後観のとらえ方は人それぞれである。ここで示されているのは、ある一人の人間が、自らの後ろめたさとどう向き合い、どうやってそれに恒久的な形を与えたか、という一つの実例に過ぎない。しかしその論理の組み立て方——後悔と自覚の違い、自己赦免の拒否、約束の定義そのものへの問い直し——には、多くの人が自らの「守り続けているもの」を考える際のヒントが含まれているのではないだろうか。


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