人って「経験」によって形作られる?それとも「生まれ持った自分らしさ」のほうが大きいと思う?
生まれ持った自分。物心つく前から、すでにそこにあったもの。癖のような、体温のような、説明のつかない何かだ。
面白いのは、私たちが経験を積む理由の一つが、実はこの自分らしさを抑えるためだということだ。子どもの頃は、思ったことをそのまま口にし、感じたままに行動していた。しかし社会に出て、人と関わり、失敗を重ねるうちに、私たちは少しずつ「加減」を覚えていく。衝動をそのまま出さない術。感情に流されず、場を読む力。これらはすべて、生まれ持った自分をそのまま外に出さないためのモノ。
経験とは、そうやって私たちを丸くしてくれるものだと、多くの人は思っている。角が取れ、賢くなり、失敗が減っていく。だが、経験は決して完璧ではない。むしろ、経験こそが新しい過ちを生む。慣れが油断を呼び、過去の成功体験が今の判断を誤らせる。「前はこれでうまくいったから」という思い込みが、思わぬところで足をすくう。
そして、ここが肝心なところなのだが、経験によって生まれるその過ちもまた、実は自分らしさの表れなのだ。どれだけ経験を積み、抑制を覚えても、判断を誤るその瞬間、そこには結局、生まれ持った自分の癖や傾向が顔を出している。同じ状況に置かれても、人によって過ちの形は違う。ある人は慎重すぎて機を逃し、ある人は大胆すぎて踏み外す。その過ちの「質」こそが、その人らしさそのものなのだ。
つまり、経験は自分らしさを覆い隠す蓋のようなものでありながら、その蓋自体にも、生まれ持った形が滲み出てしまう。どれだけ経験という布で包んでも、包みきれない部分が必ず残る。むしろ、失敗した瞬間にこそ、その人の地が見えたりする。
ここまで考えると、生まれ持った自分らしさというのが、いかに大きな存在であるかがわかる。それは経験によって薄められることはあっても、消し去られることはない。何十年生きようと、何を学ぼうと、最後の最後に残るのは、生まれた時から持っていたその人の核だ。経験は、その核を磨くことはできても、核そのものを作り替えることはできない。
だからこそ、過ちを犯した自分を、必要以上に責める必要はない。それは経験の未熟さであると同時に、紛れもなく「自分」がそこにいた証でもあるのだから。


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