話せる言語は何? それがあなたの人生にどんな影響を与えた?
なかなか挑発的な問いである。しかしよく考えれば、これほど答えに困る質問もない。
まず「話せる」とはどういう意味か。流暢に、ということか。日常会話程度なら、ということか。その基準はどこにある。誰がどう言おうと、人が最初に「話せる」言語は母国語だ。これは揺るぎない事実である。そして方言まで「言語」と呼ぶのならば、話はさらに複雑な層を帯びてくる。津軽弁と標準語は同じ「日本語」か。沖縄の言葉は方言か、それとも独立した言語か。問いそのものが、すでに曖昧な地盤の上に立っている。
さらに言えば、「言語が人生に与えた影響」などというものを、いったい何と比較して語れというのだろう。その言語を持たなかった自分など、どこにも存在しないのだから。影響を測る物差しが、そもそも存在しない。
ふと思うのは、話すのも畏れ多いが、皇后陛下のことである。小和田雅子さんとして歩まれてきたその人生とそのお人柄があって皇太子妃、そして皇后陛下という道に。そして今、外交の場において、その語学力が静かに、確かに歴史を刻いてきていることは多くの人の知るところだ。
言語は人格の一部であり、人生の道具ではない。言語ありきで人生が設計されるなどという発想は、いかにも表層的である。
そして何より、この問いが完全に見落としているものがある。言葉が不自由な人たちの存在だ。生まれつき、あるいは何らかの事情によって、音声言語を持たない人、持てない人がいる。手話という豊かな言語体系があり、文字で思考し世界と繋がる人たちがいる。「話せる言語」という問いの枠組みは、そういった人々をはじめから視野の外に置いている。無意識の排除とは、時にこういう形をしている。
ここのキャプションは、どうも自分には合わない。
問いの立て方が人の多様性を測り損ねているとき、無理に答えを探すよりも、その問い自体に首を傾げる方が、よほど誠実な態度というものだろう。


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