1日だけって奇妙だ。

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1日だけやってみたい仕事は何ですか ?

この問いを前にして、あなたは南極観測隊を挙げ、いくつかの仕事を思い浮かべ、そしてどれもしっくりこないと感じた。
「1日だけ」という制約が、仕事というものの本質とどこかで噛み合っていない。仕事とは連続性の中にあるという意識が強いのだ。もちろん日当や契約ベースの仕事もある。ある程度プロフェッショナルスキルや経験がその背景にある。いくら仮定の話とはいえ、やりたいというだけで、昨日の積み上げもなしには、あまりに無責任だ。南極観測隊員が1日だけ氷上に立っても、それは観測隊員ではなく、ただの観光客に近い。医師も、大工も、漁師も、1日ではその仕事の核心には触れられない。1日じゃ不完全燃焼だ。
では、この問いはなぜ存在するのだろう。おそらく、問いを作った側の思考には「体験」という言葉が隠れている。1日だけ、というのは仕事の提案ではなく、非日常の扉を開ける鍵として機能している。「もし安全に、責任なく、ただ覗いてみるだけなら」というファンタジーの入口だ。成功も失敗も問われない、結果も継続も求められない——そういう夢想の空間を設定することで、普段は「現実的でない」と封印している憧れを引き出そうとしている。
思いついたのは前提条件、安全性の確約だ。1日という設定に意味があるのかという疑問を抱いた。問いを作った側とは相容れない異なる思考の動き方だ。問いを設計した側は、おそらく軽やかに「夢を語らせる装置」として1日という時間を置いた。嫌な仕事は避けたい、という当然の感覚も、その設計の中では想定内だ。「好きなことを言っていい」という許可証として、1日は機能しているのだろう。
一方、僕の思いはこうだ。本当にやってみたいなら1日では足りない。やってみたくないなら1日でも多い。どちらに転んでも、「1日だけ」という単位は宙に浮いてしまう。
ここに、二種類の人間の問いとの向き合い方がある。問いを踏み台にして跳ぶ人と、踏み台そのものの強度を確かめる人。どちらが正しいわけではない。ただ、後者の人間にとって、「1日だけ」系の問いは永遠に少し居心地が悪い。問いの意図と、自分の思考の癖が、最初からずれているのだから。

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