「あ、自分ってもう立派に大人だな」と実感した瞬間はいつ?
言葉は、誰の口から発せられるかで意味が変わる
「立派」とは、相手に向けて差し出される言葉だ。「立派だ」という評価は、行為を見た者の内側で生まれる感情の結晶であって、行為をした本人が握れるものではない。太陽が「私は眩しい」とは言わない。眩しいと感じるのは、それを見上げた者の目だ。
すり替えは、静かに起きる
これが繰り返されるうちに、誰もが違和感なくこの紙に文字を埋めるようになるのだろう。書く人は、書きながらどこかで思うのだろうか?「これは本当に自分の言葉なのか、それとも紙が求める答えを演じているだけなのか」と。慣習とは、そうやって疑問を摩耗させながら広がっていくのだ。
「立派な大人になった実感は?」と聞かれて言葉に詰まる。言葉の重さと向きを正確に感じ取っているからこそ、その質問の座りの悪さに気づいているからだ。
多くの人は、その違和感に気づかないまま、求められるままに「立派だった自分」の物語を差し出す。それはそれで一つの処世術ではある。が、一度立ち止まって「これは誰の言葉なのか」と問い直すことは、言葉に対する誠実さの表れだと思う。


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