「この本の世界だけは絶対に住みたくない…」と思う作品は?理由も教えて。
二つあげたい。それはこの二つが融合した世界・社会だ。僕はこんな世界は絶対嫌だ。住みたくはない。
一つ目は、『失明の世界(原題: Ensaio sobre a Cegueira)』 / ジョゼ・サラマーゴ一様だ。
ある日突然、街中の人々が原因不明の「目の中が真っ白になる失明」に次々と感染し、社会全体が一瞬で崩壊していくという小説だ。逃れられない日常、特定のイデオロギーや主観の病ではなく、「全員が物理的に等しく、最も原始的な肉体的不快感に叩き落とされる世界」が描かれている。ライフラインは止まり、水道からは水が出ず、街や建物は排泄物とゴミで溢れかえり、人々は精神的にも肉体的にも限界を迎える。しかしそれでも彼らは死ぬことはできず、真っ白な闇の中で、べっとりとした汚れにまみれ、悪臭に耐えながら、明日のための食料を求めて這い回り、その不快極まりない「崩壊した世界」の中で日々を暮らしていかねばならないのだ。
水が出ないため、人々は自分の排泄物を処理できなくなる。精神病院に隔離された人々、そしてやがて街に溢れた人々は、自分の排泄物と他人の排泄物がべっとりとこびりついた床や泥の上を、四つん這いになって這い回るしかなくなる。
お風呂に入ることもできず、悪臭、体液の汚れ、皮膚の痒み、不衛生な環境からくる病気や痛みが、全構成員の肉体を毎時毎分、一様に蝕み続けるのだ。
「生きるため」に、最も不快で醜悪な社会を維持せねばならないという絶望。どれだけ世界が不快になろうとも、人間は飢えと渇きから逃れられない。生きるためには、その地獄のような環境の中で「活動」し続けなければならないのだ。
そして、わずかな食料を巡って、見えない者同士が暗闇の中で殴り合い、奪い合い、最も原始的で醜悪な権力構造(武器を持った一部の盲人が食料を牛耳り、女性たちの肉体を要求する等)が生まれる。
「不快だから死ぬ」ということはできず、人々は精神的に完全に摩耗し、人間の尊厳を徹底的に踏みにじられながらも、明日生き延びるために、またゴミと糞尿にまみれた街へ食料を探しに出かけ、その悍(おぞ)ましい社会を維持して暮らしていくのである。
もう一つは、筒井康隆さんの『残像に口紅を』だ。これは、「自分の思考の檻がどんどん狭まり、最後には自己が消滅する」という世界が描かれている。
まず「思考の自由」が物理的に奪われる恐怖。人間は言葉を使って思考している。この作品では、文字が消えるたびにその言葉が使えなくなるだけでなく、「その概念を思い出すことすらできなくなる」というのだ。認知症や脳機能障害によって、昨日まで知っていた言葉や大切な人の名前が脳内から永遠に消え去っていく恐怖に酷似していr。「頭の中が少しずつ強制的に削られていく」という、生きたまま精神を解体されるような感じだ。
次に世界が「表現」ごと消えていくディストピア感。言葉が消えると、世界からその実物(モノ)も消え去る。最初は「テレビ」や「衣服」といった便利なモノが消え、やがて「女」「子供」「身体の部位」までもが消える。これは、ただの言葉遊びではなく「世界が物理的に、かつ概念的に狭くなっていく絶望」として描かれている。そして最後には使える文字が数個しか残らず、「何かを考えること」すらできなくなる。世界が何もない無(虚無)へと収束していくプロセスを想像してみて欲しい。
「言葉を失うことは、人間であること(尊厳と自我)を失うことだ」という事実を、これ以上ないほど不気味に、そしてリアルに体感させてくれる。
両者が描き出す恐怖の共通項は、「どれほど不快で気味悪くとも、システムそのものが淡々と(あるいはバカバカしく)稼働し続け、その日常から降りられない」という点だ。
- 『失明の世界』の持続:
目が見えないため全員が糞尿にまみれ、人間の尊厳が文字通りゼロになっても、生物としての代謝は止まらない。明日の食料を得るために、他者を踏みつけ、汚泥を這い回る「日常の持続」が強制されるのだ。 - 筒井康隆の持続:
『残像に口紅を』では、言葉と世界が消滅していくという不条理な地獄のカウントダウンが進行する。しかし、死ぬことも、世界から逃げ出すことも許されない。日ごとに粗暴で貧相になっていく残された言葉を必死に操り、日常を維持し、生き続けなければならない。
両作とも「劇的な破滅(死)」という救いを与えず、「不快極まりないバグった世界のままで、淡々と明日の生活を営まされる」という、極めて持続性の高い肉体的・精神的な拷問を全構成員に一様に課すという世界が描かれている。


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