思わない。

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人類はいつか火星に移住(植民)できると思いますか?実際の暮らしはどんな感じになりそう?

ただ地球という「檻」からの逃走を図るモノとしか思えない。

確かに火星移住に期待を寄せる人々の思想を一言で括るのは難しい。イーロン・マスクをはじめとする火星推進派は、地球単一惑星文明の脆弱性を口にする。小惑星の衝突、核戦争、気候変動——いずれ地球は人類にとって住めない星になるかもしれない。だから「バックアップ」が必要だ、という論法である。

しかしここには奇妙な倒錯がある。今まさに起きている気候変動や核リスクを解決するより、何億キロも離れた砂漠の惑星に逃げることを選ぶ発想は、問題解決よりも問題回避を好む心理の表れとも読める。悲しいかな「地球を救う」より「地球を捨てる」ほうがロマンティックに見えてしまうのだろう。

火星移住熱が特にアメリカで盛んだ。それはアメリカという国家は「フロンティア」という神話によって自己を形成してきた。西部開拓、大航海時代の延長線上に宇宙がある——そういう歴史的・文化的な物語の磁場が働いているように思う。未踏の地を切り開き、そこに文明を打ち立てるという行為は、人類の自己実現の原型的なイメージとして機能してきた。火星移住を望む人々の多くは、意識的か無意識的かを問わず、この「開拓者」のアーキタイプに自分を重ねている。それは純粋な冒険心であると同時に、すでに「開拓し尽くされた」と思い込んでいる現代社会への閉塞感の裏返しでもあるのだ。

また火星移住推進派の中には、テクノロジーへの信仰に近い感情を持つ人々がいる。人類はこれまでもあらゆる障壁を技術で乗り越えてきた——ならば火星の極寒も、薄い大気も、宇宙放射線も、いつか必ず解決できる、という考え方だ。科学技術が不断に進歩し、人類の可能性を拡張し続けるという信念は、近代以降の西洋的思想の根幹にある。火星移住は、その思想の究極の表現形態の一つだ。彼らにとって「不可能」は単なる「まだ実現していない」なのだ。

もう一つ、見落とされがちな動機がある。それは純粋な「退屈」、あるいはより哲学的に言えば、現代社会における意味の喪失だ。物質的に豊かになった社会では、多くの人が「これ以上、何に向かって進めばいいのか」という実存的な問いに直面する。火星移住という壮大なプロジェクトは、その問いに対する一つの答えを提供する。命がけで挑む価値のある目標、世代を超えた使命感、自分が「歴史の一部」になるという感覚——それらは現代の日常生活がなかなか与えてくれないものだ。火星を夢見ることは、ある意味で「意味の飢え」に対する処方箋なのかもしれない。

ただし、ここで立ち止まって問わなければならないことがある。火星移住に「期待する」人々の多くは、実際には移住しない。彼らは夢想家であり、あるいはそのプロジェクトで利益を得る投資家であり、あるいは壮大な物語を消費するエンターテイメントの受容者だ。

現実として、初期の火星移民が誰になるかを考えると、話は一気にシビアになる。極度の資金力を持つ者か、リスクを引き受ける覚悟のある者か。あるいは地球に留まる選択肢を持てない者か。「人類の夢」として語られるプロジェクトが、実際には特定の階層の思想と欲望を反映している可能性は常に検討されるべきだ。

僕はその必要性を感じない。それは地球という「今ここ」に対する感覚が、彼らよりも豊かであるからかもしれない。

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