やはり無い。

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人生で何を犠牲にしてきましたか ?

「犠牲」という言葉が、どうも好きになれない。

「自己犠牲」という言葉がある。これが時に不思議と美しく聞こえる。誰かのために自分を削る、その行為には確かに崇高さの匂いがする。文学も映画も、自己犠牲を讃えることが好きだ。人は「犠牲にした」と言うとき、どこか誇らしげになる。それはその選択に、重さと意味を与えるからだろう。

だが、犠牲という概念には奇妙な前提が潜んでいる。「本当はそれを手放したくなかった」という前提だ。

本当にそうだろうか。

人生で何かを選ぶとき、人は同時に何かを選ばない。友人関係が疎遠になるのは、別の時間の使い方を選んだからだ。ある仕事を断るのは、別の生き方を選んだからだ。「捨てた」のではなく「選んだ」のだ。その非対称な語り方が、「犠牲」という言葉を生む温床になっている気がする。

人がなぜ「犠牲」という言葉を使いたがるのか。

ひとつには、後悔を正当化するためではないか。選ばなかった道への未練を、「犠牲」と名付けることで物語に変える。そうすると痛みが意味を持ち、自分の人生に筋書きが生まれる。「私はこれだけのものを差し出してきた」という語りは、自分の存在を肯定する装置として機能する。

もうひとつは、他者への説明責任だろう。「なぜあなたはこうなのか」「なぜあれを持っていないのか」という問いに対して、「犠牲にしたから」は完結した答えになる。それ以上踏み込ませない、防壁としての言葉。

そして最後に、承認欲求。犠牲という言葉には、聞いた人に「それは大変だったね」と言わせる力がある。共感を引き出すための、静かな演出。

犠牲の上には、何も建たない。僕はそう思う。

「あれを諦めたから今がある」という因果は、往々にして後付けの物語だ。今ある自分を正当化するために、過去の選択を「犠牲」として配置しているだけかもしれない。そもそも、人生に「犠牲にする」という選択肢は最初から存在しないのではないか。あるのはただ、選ぶか選ばないか。進むか留まるか。それだけだ。

今年もただ、自分の選んだ道を、歩いている。それだけのことだ。そのことを、より堂々と言えるようになりたいと、このキャプションのたびに思うのだ。

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