自分の目標を妨げることに対して、どれくらいの頻度で「ノー」と言っていますか ?
やはり目標という言葉が、今はどうも窮屈に感じる。目標とは測れるもの、刻めるもの、達成できるもの。だがいま自分の胸の中にあるものは、もっと輪郭が曖昧で、もっと熱くて、もっと手が届きそうで届かない――そう、夢と呼ぶほうがしっくりくる。そして、その夢を邪魔するような野暮な奴など、いないと思いたい。
しかし今日、風向きが少し変わった。人の夢を踏み躙り、潰すことで自分の価値を確かめるような人間が、この世には確かにいる。誰かの移民政策で更に悪化した。それがまだこの界隈では器作りに血税を使おうとしているようだ。まぁもう此処には未練など皆無だ。一言後世のため書き記したまでだ。そう、もとい、彼らの目には、他人の輝きが脅威に映るのだろう。だから消そうとする。水を差し、足を引っ張り、それでいて満足げな顔をしている。以前の自分なら、そこでノーと言っただろう。毅然と、静かに、しかし確かな意志を持って。
ノーと言うのすら、もう面倒くさい。彼らの妨害を、言葉で跳ね返す必要すら感じない。なぜなら、その邪魔さえも燃料だ。と気づいてしまった。嫉妬も、侮蔑も、冷笑も――全部まとめて炉にくべれば、炎はより高く、より激しく燃え上がる。そして、ここで宣言しておく。自分ひとりの夢のためだけなら、まだ大人の余裕というものを見せられたかもしれない。だが、この胸には家族の夢も抱えている。家族が描いた未来。子どもたちが見上げる空。パートナーと共に歩もうとしている道。それを守るためとなれば、話はまったく別だ。手段は問わない。あらゆる力を行使する。退く気もない。笑って見過ごす優しさも、今は持ち合わせていない。妨げようとする者たちも、それなりの覚悟を持ってやっているのだろう――そう思うことにした。であれば、こちらも同じ温度で、いや、それ以上の熱量で向き合うまでだ。排除とは怒りではない。これは、家族愛だ。
夢は、誰かに許可をもらうものではない。邪魔されるたびに、また一歩前へ進む。踏み躙られるたびに、また一段高く跳ぶ。そして最後に振り返ったとき、あの妨害たちがすべて、自分を押し上げるための踏み台となるその日を、今から楽しみにしている。来るなら来い。


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