正しくは、完全には信じていない。

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迷信を信じていますか ?

迷信というのは、荒唐無稽に見えて、実はある程度の確からしさを内包した言い伝えだと思っている。たとえば「夜に爪を切ってはいけない」という迷信。現代人は笑い飛ばすかもしれないが、電灯のなかった時代、暗がりで刃物を扱えば怪我をする。それを戒めるための知恵が、いつしか怪談めいた言い伝えになった、という説は十分に筋が通る。「北枕で寝てはいけない」も同様で、かつての日本では北枕は死者の寝かせ方だったから忌避された。文化的・歴史的文脈を踏まえれば、迷信には情報としての下地がある。では、全く何の情報もない状態と比べた時、迷信はどうか。私は迷信の方をとる。根拠ゼロの状態よりも、長い年月をかけて人々の経験が蓄積されてきた言い伝えの方が、まだ信頼に足る。それは科学的証明とは違う種類の「確からしさ」だが、確かにそこにあるのだ。

そうなると一つの問いが立ち上がる。「全く信じていない限り、信じているということになるのか」という問いだ。これは案外、正しいのではないかと思う。信じるという行為は、0か100かではない。「50%信じている」も「信じている」のうちに入るし、「10%だけ気になる」も、ゼロでない以上は信じているの射程に収まる。黒猫が横切った瞬間、一瞬だけ足が止まった経験、霊柩車をみたら親指を隠すなどがあるなら、それも同じだ。完全に無視しきれていない、その一瞬こそが「信じている」の正体ではないか。

仏滅に結婚式を挙げないのは、たとえ仏滅の効力を疑っていても、後悔したくないからだ。信じているかどうかより、「念のため」が行動を動かす。その「念のため」こそ、薄くても確かな信の形だと思う。迷信について持っているスタンスを一言で言えば、「受け入れる」という感覚だ。信じ込んでいるのではなく、かといって無視もしていない。長い時間をかけて人々が育ててきた集合知のようなものとして、敬意を払いながら付き合っている。

完全に信じていない。でも、全く信じていないわけでもない。そしてそれは、信じているということだと思う。

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