本や映画の登場人物になれるとしたら、誰になりますか ? なぜですか ?
ほとんど知らないのだ。なりたい登場人物。これまでに思い浮かべた名前は、いくつかある。フーテンの寅次郎。あの無頼で純情な男の背中を、一度でいいから生きてみたかった。術後の痛みにうなされていた夜には、ドクターコトーだった。離島の診療所で、ただひたむきに命と向き合うあの医者の魂が響いた。だが今、頭に浮かぶのは、本にも映画にもなっていない、たった一人の人物。昭和一桁生まれの、父だ。
物理的な距離でいえば、これほど近くにいた人間はいない。同じ屋根の下で、同じ飯を食い、同じ時間を過ごした。それなのに今になって振り返ると、父はひどく遠い存在だったと気づく。私は父のことを、ほとんど何も知らないのだ。
子どもの頃、戦中をどう生き延び、七人兄弟の口べらしみたいな扱いを受け、戦後どうやって立ち上がったか。何を夢見て、何に絶望し、何を諦めて、それでも歩き続けたのか。叔父でさえ、口を憚るほどだった。ある時、真っ黒な格好でアパートに転がり込んできたと。と言いかけて、言葉を濁した。それきりだった。語るのが憚られるような苦労を、父は背中に背負って生きていたのかもしれない。とかく食べ物を粗末にする事は許さなかったのだ。それで良くお腹を壊していた。
父の人生を演じてみたい。
生を受けた瞬間から、最期の息を引き取るその時まで。昭和一桁という、激動のただ中に放り込まれた一人の人間として、丸ごと生き切ってみたい。それはどんな名作の主人公よりも、どんな英雄譚よりも、私にとってはずっとリアルで、ずっと切実な物語だ。父は多くを語らなかった。私も多くを聞かなかった。その沈黙の隙間に、どれだけのものが詰まっていたのだろう。
もう確かめる術はない。だからせめて、想像の中だけでもいい。あの人の目で世界を見て、あの人の足で時代を歩いてみたい。本にも映画にもならなかった、父という、誰も知らない物語を。


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