自分という不動点

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人の個性は何を基準に形成されると思いますか ?

ある奇妙な矛盾に突き当たった。過去に基準は自分であり、周りの環境であるなどと答えた。しかし今になって思う——それは半分は正しく、半分は根本的に誤っていたのではないかと。
環境を基準と呼ぶことの誤りについて、まず整理したい。環境は確かに個性の材料にはなる。育った土地の言葉、親の口癖、幼い頃に読んだ本、友人との諍いと和解——そういったものが人の内側に堆積していくことは疑いようがない。だが材料は基準ではない。石や砂は家の素材だが、家の設計図ではない。環境は無常だ。昨日の友人関係は今日には変わり、社会の価値観は世代ごとに塗り替えられる。無常なものの上に「基準」を置けば、個性もまた波に揺れる浮き草になってしまう。実際にはそうではない。老いた人間が若い頃とまったく異なる人格になることは、本質的にはほとんどない。老害というのを除いてだが。
ではなぜ「自分が基準」という答えは正しいのか。ここで注意したいのは、感情や性格と個性を混同してはならないという点だ。感情は揺れる。怒りや悲しみは瞬間の火であり、環境の影響を直接受ける。性格もある程度は変容する——人は傷つき、鍛えられ、丸くなったり鋭くなったりする。しかし個性とはそれらの土台にある、もっと静かな何かだ。どんな問いに興味を持ち続けるか。何を前にしたとき沈黙するか。笑いのツボがどこにあるか。それらは外部の嵐に揺れながらも、奇妙なほど一貫している。
つまり個性とは「感情や性格を通り抜けてもなお残るもの」であり、だからこそ無常ではない。そして、その残り続けるものの基準は、外にあるはずがない。基準とはそもそも「他の何かを測る尺度」のことだ。尺度そのものが外部環境に依存するなら、それは尺度ではなく目盛りの付け替えに過ぎない。自分以外のものを基準に据えた瞬間、それは個性の形成ではなく個性の模倣になる。
もちろん反論もあるだろう。自分などというものは幻想であり、結局は社会的関係の産物だ、という立場だ。他者なき自己はあり得ないという意味では、一定の正しさがある。しかし関係の産物であることと、基準が外にあることは別の話だ。川は雨によって満たされるが、川の形を決めるのは地形であって雨ではない。人もまた、外から注がれるものを受け取りながら、独自の地形によってそれを流す。
その「地形」こそが個性であり、その地形の基準は自分自身の内にしかない。
これが私が今年たどり着いた、ひとつの答えだ。環境は無視できない。だが環境は素材であり、触媒であり、決して基準ではない。基準は自分だ。それ以外にあり得ない——なぜなら基準とはそういうものだから。

シンプルな結論に戻ってくるまでに、ずいぶん遠回りをした。だがその遠回りの道程に、誤りを訂正し、言葉を精密にしていく作業があった。思考とはいつもそういうものかもしれない。

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