聞かれて何か答えただろう。たぶん。

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5歳の頃、大人になったら何になりたいと思っていましたか ?

最初に見たとき、これは悪くない問いだと思った。普段なら掘り起こさないような遠い場所に手を伸ばすきっかけになる。記憶の引き出しを開けようとする行為そのものに、ある種の豊かさがある。初めてであれば、確かにそうだった。だが、二度目はどうか。三度目は? 毎年同じ問いを繰り返すことに、どんな意味があるのだろう。思うに、この出題者は「答え」を求めていないのかもしれない。あるいは、問いを使って何かを仕掛けようとしているのでもなく、ただ単に——更新し忘れているだけなのかもしれない。それはそれで少し悲しい話だが、案外そういうことはある。

では、なぜ「5歳」なのか。これは考えれば考えるほど興味深い。10歳でも15歳でもなく、よりによって5歳だ。おそらく5歳という年齢には、「まだ現実に汚染されていない」という暗黙の前提がある。夢は職業の現実的な難易度を知らず、社会的な体裁も気にせず、ただ純粋に輝いている——そういう想定だ。ウルトラマン、お花屋さん、電車の運転士。。。誰も「それは厳しいよ」とか言わない年齢。
つまりこの問いは、「あなたが世界に毒される前の、本当の夢は何でしたか」という問い。しかし、ここに根本的な矛盾がある。5歳の記憶など、多くの高齢者にはないだろう。あったとしても朧げで、本当に自分の記憶なのか、写真や家族の語りから構築されたものなのか、判別がつかない。記憶のない問いに何を答えろというのか。

今日もこのお題で書いているのは、この問いが完全に無意味だとは思っていないからかもしれない。記憶がないと気づくこと、それ自体がひとつの答えかもしれない。5歳を思い出せない人間は、いったいどの時点から「自分」として存在しているのか。その問いに答えられないとき、人は問いそのものを問い直す。その意味では、出題者が意図したかどうかはともかく、この問いはまだ機能していると思いたい。

ただ、それを毎年繰り返す必要はない。一度で十分だ。

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