100歳になった自分宛てに手紙を書いてください。
去年正直に向き合った。書いた。絞り出した。そして今年、また同じキャプション。毎度のことながら、しばらく机の前で腕を組んだまま動けなかった。
100歳まで生きるつもりがない。
誤解しないでほしいのだが、これは厭世でも絶望でもない。単純に、そういう設計をしていないのだ。老後の計画表に「100歳」という欄がない。人生の地図に、その座標を打っていない。セカンドキャリアの理想は、もっとずっと地味だ。家族がそこにいて、どこかに絵や音楽や文章が転がっていて、特別な事件のない午後が続く暮らし。平々凡々、それだけでいい。スペクタクルは要らない。だから「100歳の自分」を想像しようとすると、そこにはもやがかかっている。輪郭が結べない。書くべき相手が存在しない。
100歳への自分に手紙を書くことが難しい人間というのは、遠い未来より近い今日に賭けている人間だ、ということなのだ。昨日の続きで今日があり、今日の延長に明日がある、そのひとつながりの時間の中に生きていて、100歳という切り取り方が、根本的にしっくりこない。
ミドルからシニアへと步を進めると、二遠くを見る人と、足元を見る人がいる。遠くを見る人は、10年後・20年後を設計図に書き込み、「なりたい自分」の像を磨き続ける。それはそれで美しい。人生に方向性が生まれる。一方、足元を見る人は、今日の食卓、今週の仕事、来月の小旅行、そういう小さな輪郭の中に喜びの場所を探す。設計図より、今日という一枚の紙を丁寧に使い切ろうとする。私はどうも、前者より後者よりだ。前者のための後者という言い方もできるかもしれない。
同じキャプションが続いて学んだことがある。それは、「書けない」という反応もまた、立派な自己紹介だ。遠い未来より今日の手触りを選ぶ人間が、ここにいる。壮大な物語より、家族の笑い声と、美術館の静けさと、夕食のにおいで満たされた午後を望む人間が。そういう人生もある。そういう答え方もある。来年は。。。考えるのはよそう。


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