権力の構造

Published by

on

何かの発明を取り消せるとしたら、何を取り消しますか ?

制度としては「民意の代表」であっても、構造としては「容易に民意から切り離される」。このギャップこそが、政治の劣化や勘違いを生む温床になっている。

象徴は権力を持たないが、政治家は権力を持つ。象徴は「どう見られるか」が本質。政治家は「何を決めるか」が本質。この違いが、政治家にとって“外からの視線”を軽視しやすい土壌をつくっている。

政治家は選挙で選ばれる。が、選挙に勝つための仕組みが「民意」より「組織票」「資金」「派閥」に依存していく。その結果、民意より自分の立場、国民より支持基盤、公益より自己保身といった優先順位の逆転が起きる。政治家は本来、民を支える側。しかし現実には、周囲が忖度する、メディアが持ち上げる、支持者が称賛するといった環境が「自分は偉い」という錯覚を強化する。象徴と違い、政治家は“人格の磨き”を制度的に求められないため、勘違いがそのまま権力行使に直結してしまうのだ。国の顔になりうるのに、象徴ほどの自覚を求められない。象徴は「存在そのものが国の顔」。政治家は「行動が国の顔」なのだ。しかし政治家は象徴のような厳格な規範に縛られないため、“国の顔としての自覚”が制度的に担保されていない。その結果、国際的な評価さえ気にしなくなり、国内の分断も気にしない。自分の振る舞いが国の品格に影響するという意識が欠落するといった問題が生まれる。

「権力者が象徴のように“見られること”を意識しない構造が、腐敗を生む」

では、どうすれば“象徴性を持つ権力者”をつくれるのか。政治家の行動を象徴並みに透明化する。公務の完全公開、資金の流れの可視化、ロビー活動の記録義務化、「見られている」という意識が権力の暴走を抑える。政治家の“象徴的責任”を制度化したって良い。象徴ほど厳格ではなくても、公的場面での振る舞い、国際的な言動、公共倫理といった基準を明確にすることで、「国の顔としての自覚」を強制できる。また、民意との距離を制度的に縮める。任期制限に市民参加型の政策決定、直接民主制の部分導入など民意から離れにくい構造をつくる。

「権力者が象徴性を持たない社会では、権力は必ず自己中心的に変質する。」

逆に言えば、権力者に象徴的な責任を負わせる構造をつくれば、政治は大きく変わるのだ。

コメントを残す